先日のコラムで金歯・銀歯やそれらが連なったブリッジ、また入れ歯の作り方の大まかな手順をお伝えしましたが、この手順による、さまざまな材料を用いた製品や道具の作製は、何と、数千年前から我々人類が行ってきたのです。
古代日本で、そうした手順・技術を用いて作製されたものとして、銅矛や銅鐸といったものが挙げられます。
これらは銅と錫の合金である青銅を材料としていることから、それらが作製されたおよそ、二千年前の弥生時代の日本には、既に、青銅を熱で溶かして鋳型に流し込む所謂「鋳造」の技術が存在していたことが分かります。
古来の日本の技術
皆さんは、炎を使って金属や合金を溶かした経験はありますか?おそらく、あまりいらっしゃらないのではないかと思われます。
炎で金属や合金を溶かすことは、現代に生きる私たちが日常的に使っている道具であっても難しく、そしてもちろん、それは およそ二千年前においても同様でした。それでも当時既に、そうした技術は存在していたのです。
そのように考えてみますと「当時の人々はどのようにして金属や合金を溶かしていたのだろう?」と思うのですが、こうしたことに関しても考古学分野の方々は研究されていて、現在までに、いくつか弥生時代の青銅鋳造遺跡が西日本を中心として発見・発掘されています。
技術の伝播
そしてまた、そうした遺跡の作業所としての構造や、集落での立地や、そこで見つけられた青銅の欠片の成分などから、それぞれの時代の新旧、あるいは、日本列島での青銅鋳造技術の伝播の経路などが浮かび上がってくるのですが、それによりますと、それまで日本列島にはなかった、この新たな技術は、ユーラシア大陸を東遷し、朝鮮半島を南下して、北部九州に至り、そこから東西そして南へと伝播していったという様相になります。
そして、その後しばらく経つと、同じ経路をたどり、今度は鉄の加工技術が伝播してきました。
つまり、我が国には、さきに青銅が伝わり、次いで、しばらく経ってから鉄の加工技術が伝播してきたのです。
この様相は、世界史で教わった青銅器時代と鉄器時代との関係(青銅が先、鉄が後)とも似通ったものがあります。
あるいは、それらの背景には、共通する科学的知見があるともいえます。それは、それぞれの金属・合金としての融点・液相点です。
鋳造
では、もう少し詳しくこれを述べますと、鉄単体での融点はおよそ1500℃程度であり、そこに炭素が自然に添加された炭素鋼となりますと1200℃ほどにまで液相点が下がります。対して、銅単体での融点は1090℃であり、そこに錫を混ぜて合金化することにより、溶ける温度(液相点)は1000℃ほどにまで下がります。
つまり、鋳造の材料として青銅を用いるためには、1000℃以上まで加熱する必要があり、他方の鉄は合金化された炭素鋼で1200℃ほどになります。そして、これがさきに述べました青銅器時代と鉄器時代との関係の背後にある科学的知見です。
これにつきましては、また次回に続きを述べさせて頂きたいと思います。